平砂娯楽室は物理的にはただの直方体の空間だ。建物の2階の階段を上がってすぐの扉を開けると、推定8mW×15mD×2.4mH、容積約120名の空間が拡がっている。細長いへやの中央に立つと、正面は全面がガラス張りの窓、後ろは真っ白い奥の壁面、左手もただの壁面、右手は窓(1階の屋上に出られる)が二つあるだけのやはりただの壁面だ。
そしてそれは、
[筑波小劇場]ほか、学内の多くの劇団のホームステージでもあった。それは、94年度の開学から、
[AKU-AKU]が開店してもう一つの選択し得るステージとして機能するようになるまで(そしてそれからも)、
筑波にとって最も重要な劇場であり続けた。
筑波大学は構内にいくつかの学生宿舎とよばれる施設をもっている。これらの施設はまだ周辺に民間の下宿が整備されていなかった94年度〜97年度の期間に急速に整備された。まず、南地区の北端に平砂(ひらすな)宿舎が開舎し、続いて年度を追って追越(おいこし、当初はおっこし)、東平砂、一の矢の各宿舎が順に開舎していった。
それぞれの宿舎には、食堂、喫茶店、売店、ラウンジ(当時の学生は個人でTVや電話を持たなかったので全員がラウンジのこうした設備を利用していた)、娯楽室を備えた共用棟が設置された。大学がそれを集会室ではなく、娯楽室と規定したのは時代ゆえか。
周辺に生活施設が整備されるまでの期間、共用棟の施設が学生の生活に関わるすべての活動の場になっていた。劇団の公演(最初に共用棟で行なわれたのは
[竹蜻蛉(たけとんぼ)]の旗上げ公演である94年の[逆光線ゲーム])、個人の文化活動(95年の上映会
[シネマテーク-イド])、コンパ、さらには75年の春の、全希望者に対する宿舎の入居の保証を要求して展開した宿舎闘争の集会さえもが共用棟で行なわれていた。こうして、
[竹蜻蛉]、
[筑波小劇場]、[描(びょう)](現在は解散)の、初期の三つの学内劇団は、平砂共用棟の娯楽室を選択の余地のないホームステージとして利用していた。
しかし、平砂娯楽室は難しい空間でもあった。平砂共用棟の娯楽室は出入り口のすぐ外がラウンジ、ステージ奥の外が館外の広場になっていて、声が大きいだけで調子っ外れの
[桐の葉](平砂は体育専門学群の学生が多かった)、電話の向こうの男に向かって泣きわめく声(女子も多かった)、TVや自動販売機の騒音などに容赦なく包囲された、最悪の劇場だった。そんな喧騒の中でも、幕切れの拍手の直前の完全な沈黙を実現できるほどの、強烈なテンションを生み出せる劇団だけが、この空間をステージとしてねじ伏せることができた。
問題はそれだけではなかった。"公共施設を営利には使用させない"と主張し続けた当局の方針から、平砂娯楽室を使った公演では席料を集めることができず、公演の費用は完全に座員の持ち出しによって賄われなければならなかった。だから、
[竹蜻蛉]でも
[筑波小劇場]でも、創立メンバたちは、公演資金を調達するために土日には構内の飯場を回って清掃や穴堀りなどのアルバイトをもらっていた(下り方面平砂バス停の歩道のプレートは
井戸が敷いた)。そして、"それでもこの公演は為されるべきか"という自問に答えられる公演だけが成立し得た。
平砂娯楽室こそは、まさしく鉄を鍛える劇場だった。平砂のステージに立ったすべての役者に問え。そのステージに渦巻く熱気がいかにして鉄を鍛えていったかと。彼らはきっと、胸を張って(しかし静かに微笑みながら)語り始めるだろう。